[ヒロシマドキュメント 被爆80年] 岸本さんの定点撮影 5万戸・人口21万人に 被爆2年後 6割に回復
25年1月24日
岸本吉太さんが定点撮影した被爆後の広島市中心部の写真は、焼け跡の光景の変化から復興の進展を映し出す。市の「市勢要覧」(市公文書館所蔵)では、米軍の原爆投下で激減した戸数は1947年8月に4万9798戸となり、被爆前の65%の水準に。人口は21万2235人で、68%まで回復したと記録する。(編集委員・水川恭輔)
町内会の報告に基づく46年8月の市の調査(46年度の市勢要覧に掲載)では、原爆により建物7万147戸が「半壊半焼以上」の被害を受けた。被爆前にあった7万6327戸の92%を占め、使用可能な建物は6180戸まで減った。
市民は自ら焼け跡にバラックを建て、基町(現中区)の旧軍用地では簡易な公営住宅の建設も進められた。被爆1年の46年8月の「復興建物」は計3万2242戸。内訳は「修理」が1万8486戸、「バラック建」が1万2171戸で、本格的な「新築」は1585戸にとどまった。
同月の全戸数は3万7608戸だったが、1年後の47年8月には約1万2千戸増えた。調査結果が載る47年度の市勢要覧は「一時再起不能とさえ懸念された本市は、驚異的な復興ぶりを示している」と記す。
一方、人口は46年8月の市調査では、被爆直前に推計31万2277人だったが、死者数は同11万8661人に上った。この推計人口と比べると、被爆3カ月後の45年11月1日の調査では人口は約17万5千人減り、約4割の13万6518人だった。
その後、市外に避難していた被災者が戻る動きも進み、46年8月には約5万人増の18万8119人に。47年8月にはさらに約2万4千人増えた。
爆心地からの距離別でみると、47年8月の1キロ以内の人口は1万5907人で、被爆直前(推計6万894人)の26%、同じく1~2キロも32%だった。2キロ以内では、ほとんどの建物が全壊全焼していた。2~3キロの人口は被爆直前とほぼ同じ水準に戻り、3キロ以上は64%増えており、回復ぶりに差があった。
(2025年1月24日朝刊掲載)
町内会の報告に基づく46年8月の市の調査(46年度の市勢要覧に掲載)では、原爆により建物7万147戸が「半壊半焼以上」の被害を受けた。被爆前にあった7万6327戸の92%を占め、使用可能な建物は6180戸まで減った。
市民は自ら焼け跡にバラックを建て、基町(現中区)の旧軍用地では簡易な公営住宅の建設も進められた。被爆1年の46年8月の「復興建物」は計3万2242戸。内訳は「修理」が1万8486戸、「バラック建」が1万2171戸で、本格的な「新築」は1585戸にとどまった。
同月の全戸数は3万7608戸だったが、1年後の47年8月には約1万2千戸増えた。調査結果が載る47年度の市勢要覧は「一時再起不能とさえ懸念された本市は、驚異的な復興ぶりを示している」と記す。
一方、人口は46年8月の市調査では、被爆直前に推計31万2277人だったが、死者数は同11万8661人に上った。この推計人口と比べると、被爆3カ月後の45年11月1日の調査では人口は約17万5千人減り、約4割の13万6518人だった。
その後、市外に避難していた被災者が戻る動きも進み、46年8月には約5万人増の18万8119人に。47年8月にはさらに約2万4千人増えた。
爆心地からの距離別でみると、47年8月の1キロ以内の人口は1万5907人で、被爆直前(推計6万894人)の26%、同じく1~2キロも32%だった。2キロ以内では、ほとんどの建物が全壊全焼していた。2~3キロの人口は被爆直前とほぼ同じ水準に戻り、3キロ以上は64%増えており、回復ぶりに差があった。
(2025年1月24日朝刊掲載)